◇愛と憎しみをこえて
 人間は「愛」なしに生きることはできません。親と子、夫と妻、友人との絆あらゆる人間関係は愛によって結ばれています。しかしその愛は、基本的には自己愛、自己中心的な愛であるがゆえに、つねに不安を伴い憎しみをはらむものです。そこに人間の愛の限界があるのではないでしょうか。今号では第四条に語られてある慈悲を通して、人間の愛とまことの愛について講じていただきましょう。

【註釈版本文】
  慈悲に聖道(しょうどう)・浄土のかはりめあり。
 聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。
しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。
 浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。
 今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
しかれば念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと云々。


【意 訳】
 慈悲ということについて、聖道門で勧めているような慈悲と、浄土門で語る慈悲と違いがあります。
慈悲とうことは、苦しみ悩む人をあわれにおもい、いとおしみ、守り育てることですが、聖道の慈悲というのは、自力の力で、
人々を苦しみから救いあげて、安らかな幸せを与えようとすることをいいます。
しかし凡夫がどんなにつとめても、思い通りに助けとげるのは至難のことです。 
浄土門で慈悲を語る場合は、自分が本願を信じ念仏して、すみやかに仏のさとりを得させていただいて、
その上で大慈悲大悲心をおこして、思いのままに一切の衆生を救い真実の利益を与えることをいうべきです。
 この世に凡夫として生きてあるかぎり、どんなにいたわしい、かわいそうだと思っても、思い通りに助けることはできないから、
わが力によって、この世で人々を救おうと願う慈悲は中途半端なものでしかありません。
そういうわけですから、本願を信じて念仏を申すことだけが、ほんとうに徹底した大慈悲心だといえましょう。と仰せられました。


▼愛につきまとう苦悩



 『歎異抄』の第四条は、人間の愛の無力さと悲しさをとおして、空しさを満たすものは、
阿弥陀仏の大悲に包まれて念仏するほかにないことを顕わされたものです。人の世には「愛」がなければなりません。
しかしその愛がひたむきで あればあるほど、悲劇的であるところに人間という存在の悲しさがあるのです。
仏陀は、そのような愛するゆえの苦悩を、愛別離苦、怨憎会苦と名づけられました。
愛別離苦(あいべつりく)とは、愛するものと別れ離れてゆかねばならないことの苦しみということです。
どんなに離れがたく愛し合っていても、ともにあるべき縁が切れたならば、生木がさかれるように別れてゆかねばなりません。
そこに人間の愛のはかなさ、愛の無常性があります。
 怨憎会苦(おんぞうえく)とは、怨(うら)み、憎(にく)しみあうものが会わねばならぬことの苦しみです。
人はだれしも愛し合い、心を許しあった暖かい愛情に包まれて生きてゆきたいと願っています。
しかし、お互いの利害関係が相反したり、ものの考え方や生活様式が相容れない場合は、反目しあうようになります。
その中で、相互に傷つけあい、怨みと憎しみが生まれてくるわけです。憎みあうものが、離れ去ることができずに、
会わなければならないということは、まことにつらいことです。
怨憎会苦とは、愛しようとして愛しえざることのつらさであるともいえましょう。
 こうして人間が、日々の対人関係の中で出会う苦悩を愛別離苦・怨憎会苦とよび、
克服しなければならない人生の課題であるといわれた仏陀(ぶつだ)の教説は、
人間の愛ゆえの悲しみと苦しみを超える道を教えるものであったのです。


▼愛にひそむ自己中心的なこころ

仏教では、「愛」という言葉は、貧愛・渇愛・愛欲というように、煩悩の名称として使われることが
多いようです。ときには慈愛とか、愛語というように、慈悲の意味で用いられることもありますが、
多くの場合は憎しみの反対概念として、貧愛の意味で用いられています。
たとえば『法句経』に、
   愛より愁いは生じ、愛より恐れは生ずる。
   愛を超えし人には愁いはなし。かくていずこにか怖れあらん

というふうに、
自分自身にとらわれ、自分に都合のいい人や物事を自分の所有物としたいと貪り求めてゆく心のはたらきを愛といい、
愁(うれ)いと怖れの原因とみなされてきたのです。それを渇愛というのは、
このような貪りの心は私どもの生存の根源に根ざしたもので、のどが渇いたものが、
無性に水をほしがるように理性によるコントロールも、意志による抑制もきかないほど強烈なものであることをあらわしています。
 怒り憎む瞋恚(しんに)が、自分に都合の悪い逆境に反発して起こす心であるのに対して、
貧愛(とんない)の心は、自分にとって都合のいい順境に対しておこる心であるといわれています。そして順逆の縁によって、
自分自身の存在を絶対的なものとみなし、自分の都合を中心としてすべてをみてゆく自己中心的な想念(おもい)があります。
それを愚痴(おろかさ)とか無明(無知)といいます。
無明(むみょう)とは、ある特定の対象についての知識が欠けているということではなくて、
自分自身の存在の真相について無知ということであり
自分というものを実体的な存在とみなす自己自身への根元的な誤解のことです
ともあれ、このような愚痴(ぐち)(無明)・貧欲(とんよく)・瞋恚(しんに)を三毒煩悩といい、
自他を苦しめ悩ますいわば心の猛毒であるとされてきました。
 人の世には愛がなければならないといいましたが、その愛が渇愛であり、貧愛であってはならないのです。
親と子、夫と妻、兄弟、友人をつなぐ絆は「愛」ですが、人を愛する という名のもとに、
実は人を自分の幸福のための道具として利用しようとする自己愛であることがあまりにも多いようです。
「私はあなたを愛します」というときは、あなたの存在は、私にとって都合が良くて、
私の幸福のために必要であるといっている場合が多いのではないでしょうか。もしそうならば、相手を愛してるのではなくて、
自分の幸福実現のための手段として、道具として相手が必要であるといっていることになります。
 このようにお互いが自分の幸福のために利用しあうという間柄で、たまたま利害 関係が一致している状態を「愛」というのならば、
愛欲とよばれたのです。人はそのおかれた状況、時と場合によって快適さの条件が変わってゆくものです。
お互いの利害関係がくいちがってくると、今までの愛は憎しみに変わり、味方が敵になります。
このような危険な愛に生きているのが人間であるとすれば、人間関係というものは、たえず危険に直面しているといえましょう。
さきにあげた『法句経』に「愛より愁いは生じ、愛より恐れは生ずる」といわれたのはその故です。


▼真実の愛


 まことの愛とは、相手の「いのち」のかけがえのない尊厳さにめざめ、
相手をほんとうに大切なものと思う心からでてくる慈(いつく)しみの心で、決して憎しみに変わることがありません。
お互いは一つの大きな「いのち」のなかで連帯し、一人ひとりがかけがいのない大切な存在であることを
はっきりと確認したところから、「もろもろの衆生において視ること、自己のごとし」というような深い対人関係が成立しますが、
仏教では、それを慈悲という言葉であらわしてきました。
 慈悲とは生きとし生けるものをあわれみ、いつくしむ心ですが、すべての者に楽を与えようとする(与楽)心を慈といい、
苦しみを除いてやろうとする(抜苦)心を悲というといわれています。

武邑尚邦氏の『仏教思想辞典』によれば、慈の言語であるマイトリーは、ミトラ(友)から造られた抽象名詞で、
本来は友情、友誼の意味であるが、一切の人びとに対する平等の友情のことを慈という。また悲の言語のカルナーは、痛む、
悲しむであるが、その原意は「呻き(うめき)」ということであって人生の苦に対する人間のうめきを意味しています。
自身の傷みをとおして人の傷みを同感し、
「その自分の中にある同苦の思いが他の苦をいやさずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲である」といわれています。
 要するに慈悲とは、人々の苦悩を同感し、痛みを共感しながら、人々の真実の幸せを、
わが事として願い求めてゆく心をいうのです。それゆえ慈悲の根源には、相手と一つにとけあって、
痛みを共感してゆくということがあるわけです。一切の衆生と自分とが本来一つであると直感してゆく万物一如の知見を
智慧というならば、真実の慈悲の根源には、自己と世界の真相を知る知恵があることがわかります。
 仏陀とは、智慧と慈悲を完全に実現されている方をいい、
菩薩とは、その徳をわが身の上に実現しようと努め励(はげ)んでいる方をいうわけです。万物は本来一如であるとさとり、
自他の区別を超えて、生きとし生けるすべてのものと連帯し、万人の苦悩をみずからのこととして共感し、
その苦を抜いて、真実のしあわせを恵み与えようとする方を仏陀とよぶのです。
それゆえ善導大師は、「仏は大悲者なり」といわれ、源信僧都は、「極大慈悲の母」と讃嘆されたのでした。覚如聖人は『観経』に
仏心とは大慈悲これなり」と説かれたこころを、
   あはれみをものにほどこす心より
   ほかにほとけの心やはある

と讃嘆されたことは有名です。


▼人間の愛の限界


 龍樹菩薩の『大智度論』などによれば、慈悲とは、衆生に喜楽の因縁を与え、離苦の因縁を与えることであるが、
それに、衆生縁・法縁・無縁の三種がある
といわれています。
衆生縁(しゅじょうえん)というのは、凡夫が起こす慈悲で、衆生のなかに親しいものと疎遠(そえん)なものとを分け、
親子・兄弟・夫婦といった親しいものだけを対象として起こす狭く限られた慈悲であるから、衆生縁というのです。
たしかに親が子を育てているときの献身的な愛情は、慈悲という言葉にふさわしいものがあります。しかしその愛情は、
他人の子供にまで及ばないし、それどころか他人の子供を敵視するという偏狭(へんきょう)さにおちいることさえあります。
憎しみを生み出したり、わが子可愛さから、さまざまな罪を犯すことさえなるとすれば、
それは慈悲というより愛欲というにふさわしいものに転落してしまいます。やはり慈悲には智慧の裏づけがなければならないのです。
 法縁の慈悲というのは小乗仏教の聖者の起こす慈悲です。私どもはすべてさまざまな要素(法体(ほったい))の
集合体であって、「我」というような実体のない仮の存在に過ぎない。あるのはさまざまな要素(法)だてである。
(我空法有(がくうほうう))をさとって、自分や他人へのとらわれる心(我執(がしゅう))をなくすようにと教え導きますから、
法縁といわれるのです。
 それに対して無縁の慈悲というのは諸仏の起こした完全な慈悲で、すべては空であると知って執着をはなれ、
万物は一如であるとさとる智慧の眼を開いて、善人も悪人も、賢者(けんじゃ)も愚者(ぐしゃ)も、敵対するもの随順するものも、
万人をわけへだてなく包み、一人ひとりになり切って、その苦悩を共感しつつ、真実の幸せを恵み与えようとする心です。
それは順縁も逆縁も、縁として縁ぜざるなき広大無辺な心ですから、無縁の大慈大悲とよばれております。
一般に衆生縁を小慈小悲、法縁を中慈中悲、無縁を大慈大悲と呼んでおります。
▽衆生縁→(小慈小悲(しょうじしょうひ))法縁→(中慈中悲(ちゅうじちゅうひ))無縁→(大慈大悲(だいじだいひ))
 聖道門とは、小慈小悲はもちろん、中慈中悲さえも超えて、大慈悲をこの身の上に実現しようとして日夜はげんでゆく
自力修行の道をいうのです。それはたしかに崇高な理念であり、尊い行為にちがいがありません。しかしそれがいうに易く、
行うはいかに至難の道であるかは、利己的な自身のあさましい現実をかえりみただけでわかります。
大慈大悲どころか、わが子ひとりを真実のしあわせに導くこともできず、わが親だけでも、
本当に案じてさしあげることもできないのが自分の浅ましい現実なのです。
 万人平等に、というまえに、せめて深い縁に結ばれた親子、兄弟、夫 婦、友人同士が、利害、打算を超えて、
いたわりあい、かばいあい、まもりあって、ほんの束の間の人生を愛と安らぎのなかで過ごしたいものです。
しかし現実には、内からも外からも、その愛と安らぎを破って、人生とはそのみじめさを思い知らされてきた歴史
だったのではないでしょうか。
 自己中心的な妄念に振り回され、愛と憎しみの煩悩に翻弄(ほんろう)されながら生きるしかない凡夫の身にとって、
慈悲の心の尊さを知らされれば知らされるほど、そしてせめて苦しむ人のお役に立とうと努めれば努めるほど、
愚かな力なきわが身を慚(は)じるしかありません。
そこに「今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし」
という深い慚愧と、断念が生まれてくるのです。


▼人間の愛の無力さと悲しさが救われてゆく道


 人生には、腸の断ちきられるような思いをしながらも断念しなければならないことがあります。
人間の愛の手の及ばぬことがあるのです。その人間の愛の悲しい断念を包み、支えたもうのが阿弥陀仏の大慈大悲の本願でした。
人間の手のとどかぬところこそ、如来の大悲の手は確実にさしのべられているのだと聞くとき、自分の力のなさを悲しみながらも、
希望と光が味わわれてくるのです。それが如来より与えられた本願の念仏のなかに感じられる広々と開かれた世界なのです。
親鸞聖人は、
   小慈小悲もなき身にて
   有情利益はおもふまじ
   如来の願船いまさずじ
   苦海をいかでかわたるべき

と讃詠されました。
小慈小悲さえも行ぜられない愚かな身で、人を済度してやろうというような思い上がったことは思うべきではない。
かかる浅ましい、申し訳ない私を救うて仏陀にならしめようと誓願された大悲の本願に身をゆだねて念仏申すところにのみ、
人間の愛の限界を超えて自他共に生死の苦海を渡る大道があるといわれるのです。
 仏になるということは、自他をへだてする「私」という小さな殻を破られて、万人と一如(いちにょ)に感応しあい、
自在に人々を利益することのできる大慈大悲の身となることです。
それはいま阿弥陀仏がなされている広大な救いのはたらきに参加し、「おもふがごとく衆生を利益する」身になるのです。
 こうして念仏という如来よりたまわった本願の大道に帰入することによってのみ、人間の愛と悲しみと空しさが救われてゆくのです。
それゆえにまた有縁の人々に、念仏をすすめ、如来の大悲の世界を伝えてゆくとき、それは「大悲を行ずる」とたたえられるのです。
念仏者のまことの生き方がそこに示されているといえましょう。

                                                               梯 実円 先生

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